日時:2022年9月3日(土)午後
場所:明治大学駿河台キャンパス グローバルフロント2階(4021)
開催方式:対面+Zoom のハイブリッド方式(Zoom参加方法は別途お知らせします。)
◆プログラム◆
- 12:30 開場 (この時間よりZoomミーティングルームに入室可能となります)
- 12:50 開会 総合司会:長瀬恵美
発表:中村一輝(東洋大学非常勤講師)
「F. スコット・フィッツジェラルドの『美しく呪われた人たち』における 最終場面:なぜアンソニー・パッチは「僕はやり遂げた」と言うのか」
- 14:00~16:30 シンポジウム「The Great Gatsbyの『精読』と『解釈』を巡って」
コーディネーター・講師:倉林秀男(杏林大学)、渡邉俊(杏林大学)、深谷素子(鶴見大学)、関戸冬彦(白鴎大学)
司会:高橋美知子(福岡大学)
閉会挨拶:杉野健太郎会長(信州大学)
*会場について
明治大学駿河台キャンパス グローバルフロント2階(4021)
大会運営委員&発表者のみなさまへ
https://www.meiji.ac.jp/ksys/classroom/room.html?id=GF_lec_large&rm=G4021
会員のみなさまへ
https://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/suruga/campus.html
駿河台キャンパス「グローバルフロント」は「JR御茶ノ水駅 」寄りの敷地にあります。
リバティタワーやアカデミーコモンのメインビルディングとは異なる区画にあります。
1階にサンマルクカフェが入った建物です。
《研究発表概要》
「F. スコット・フィッツジェラルドの『美しく呪われた人たち』における最終場面:なぜアンソニー・パッチは「厳しい戦いだったが、僕は諦めなかった。僕はやり遂げたのだ」と言うのか?」 中村一輝(東洋大学非常勤講師)
本発表は、米国モダニズム作家であるF. スコット・フィッツジェラルド (F. Scott Fitzgerald, 1896-1940)の『美しく呪われた人たち』(The Beautiful and Damned, 1922) を考察する。従来この小説は、『楽園のこちら側』(This Side of Paradise, 1920)や、『グレート・ギャツビー』(The Great Gatsby, 1925) そして『夜はやさし』(Tender Is the Night, 1934) に比べ、批評の対象とされない傾向があった。この理由は、物語の最終場面における主人公アンソニー・パッチ (Anthony Patch) の発言が読者に共感を呼ばない為であると一般に知られている。最終場面とは、放蕩な結婚生活で経済的に枯渇し、祖父アダム・パッチ (Adam Patch)からの遺産相続を期待するアンソニーが、妻グロリア (Gloria) から裁判の逆転勝利を告げられた後、客船の中で囁く件のことである。
しかし、本発表はこの結末描写で、なぜアンソニーは「厳しい戦いだったが、僕は諦めなかった。僕はやり遂げたのだ」と言うのかという問いを立て、それに一つの答え (解釈) を提示する。その答えとは、アンソニーのアダムに対する思いが心の内にあるというものだ。結末におけるアンソニーのこの言葉はアダムに向けて放ったものである。確かに、アンソニーは「何か成し遂げた」とは言い切れない。しかし、アンソニーの言う「やり遂げた」(“came through”) が作品の序盤で、アダムがアンソニーに言い放つ「何か成し遂げろ」 (“accomplish something”) に呼応しているとものとすると、物語終盤でアダムは既に亡くなっているにも関わらず、アンソニーがアダムから受けた忠告にとらわれていたと推測の余地が残る。では、何を「成し遂げた」のかというと、アダムが期待する職業については「成し遂げた」とは言い切れない。作品全体を通じて、アンソニーはアダムの遺産を譲り受けることに執着しているように描かれているが、アンソニーの言う「やり遂げた」は職業に関することではなく、「祖父アダムの」所有物を守り通したという意味合いだと定義したい。それは、アダムから送られた切手のコレクションをアンソニーが始終大切に扱っている様子に込められているのだ。
《シンポジウム概要》
フィッツジェラルド協会 2022年度大会シンポジウム:
The Great Gatsbyの「精読」と「解釈」を巡って
本シンポジウムでは「精読」、「解釈」という軸を中心として、4人の講師がそれぞれの視点からThe Great Gatsby (1925)の考察をする。The Great Gatsbyの「精読」、「解釈」についてはこれまでも多くの研究がなされてきたが、新たな視座を提供できるようなシンポジウムにしたい。
フィッツジェラルドの文体を考える
The Great Gatsbyを中心に
倉林秀男(杏林大学)
本発表はF・スコット・フィッツジェラルド(Francis Scott Fitzgerald, 1896-1940)のThe Great Gatsby (1925)の文体的な特徴の一端を明らかにするものである。ひとつの事象の描写は語り手の視座にあわせた文体が採用される。しかし、「文体」や「スタイル」という用語の持つ意味は、分析者によって前提が異なることがある。例えば文体を「繊細」、「華麗」という形容詞と同様に、「荘厳で華麗な雰囲気を持つ文体」などと文体が評されることがある。
そこで、本発表ではこうした「繊細」や「華麗」と評されるフィッツジェラルドの文体について、言語学的な手法を用いて文体分析を行う。文体分析とは、作品のなかである特定の効果を狙うために、選択されている表現形式を物語の流れに従って考察していくことである。たとえば、作品中に付帯状況の分詞構文が用いられている場合は、言語学的に分詞構文の持つ機能と意味を下敷きに、物語中での表現効果を考えるということである。The Great Gatsby はフィッツジェラルドが「精密な文体で描きだした」という結論に向けて「精密さ」というものがどのようなものであるか、言語学的に解明していくことにする。
比喩表現が「文字通りに」解釈される時
K. Woodman-MaynardのThe Great Gatsby: A Graphic Novel Adaptationを検討材料に
渡邉俊(杏林大学)
2021年1月のパブリック・ドメイン(PD)入り後、The Great Gatsbyのアダプテーション作品・二次創作ラッシュの中、2021年にK. Woodman-Maynardによるグラフィック・ノベル版(The Great Gatsby: A Graphic Novel Adaptation)が発表された。水彩画ベースの彼女のグラフィック・ノベルでは、彼女の巧みな色遣いも相まって、信頼できない語り手=ニックの語りの不確かさや、フィッツジェラルドの曖昧な比喩表現が強調される。彼女の作品において特徴的なのは、比喩表現の「文字通り」の再現であろう。デイジーとジョーダンの初登場の場面”two young women were buoyed up as though upon an anchored balloon”では、二人が浮遊した興味で非現実的な姿が「文字通り」描かれる。もちろん彼女が原作の比喩や象徴を理解していないわけではなく、意図的にリアリズムと切り離した作品を作り出そうとした結果だと考えられるだろう。
本発表では、Woodman-Maynardのグラフィック・ノベルにおいて、原作における「行間」を埋めるような描写や、原作における比喩が「文字通り」に再現された描写を取り上げながら、比喩が比喩として読まれない時やその経験や可能性についてパネリストやフロアと意見交換できればと考えている。
フェイクな彼らのリアルはどこに?
−4年生ゼミでのThe Great Gatsby精読活動から見えたこと
深谷素子(鶴見大学)
The Great Gatsbyにおける演技性についてはすでに多くの先行研究で指摘されているところであるが、インスタ映えやキャラ立ち、アバターの世界で生きる今の学生たちにとって、本作の登場人物が誰も彼も演技的でフェイクであるが故に彼らをむしろリアルに感じる点は、改めて指摘する意味があるように思われる。“If personality is an unbroken series of successful gestures, then…”というよく知られたフレーズを、Gatsbyだけでなく他の主な登場人物全員に当てはめるなら何が見えてくるのか。おそらく特に目新しい知見は提示できないだろうが、The Great Gatsbyを今教室で精読する際に見落としてはならないFitzgeraldの表現の技を、改めて確認できればと思っている。
精読出来ているか否か、それが問題だ
― The Great Gatsbyを精読するとはどういうことだろうか?
関戸冬彦(白鴎大学)
精読とはそもそもどういうことを指すのだろうか?おそらく、一般的な答えは「ちゃんと英語で作品を読むこと」だろう。では、どこを、あるいは何を、外したら精読ではなくなるのだろうか?例えば単語の意味を取り違える、文法的な解釈が間違っている。これらもそのひとつだ。あるいは歴史的な背景をわかっていない、固有名詞から間違った連想をしている、などもあるかもしれない。では英語を完璧に理解し、歴史的、文化的背景を博識が如く認識していたとして、その上で「Gatsbyの気持ちは皆目理解出来ない」となったら、どうだろうか?つまり、登場人物たちの気持ちや言動に理解を示せなかったらそれは作品を理解したことになるのだろうか?精読と作品理解は別の問題だ、との声も聞こえてきそうだが、そうなると作品理解をせずに精読は出来ているということになるのだが、ではそれは何を「精読」したことになるのだろうか。ちょっと話がややこしくなってきたが、翻訳やリトールドも含め、The Great Gatsbyという作品を精読するとはどういうことか、換言するとこの作品を読むことの本質とは何か、ここらへんをみなさんと議論してみたいと思います。